豆知識

【花鳥画】風景には欠かせない自然や花鳥モチーフ「自習自得」の花鳥画家。渡辺省亭とは?

出典先:渡辺省亭 渡辺省亭 画『省亭花鳥画譜』1之巻
国立国会図書館デジタルコレクション 
https://dl.ndl.go.jp/pid/12150792 (参照 2023-05-18)

こんにちは!nagaです。
今回は、【花鳥画】
風景には欠かせない自然や花鳥モチーフ
「自習自得」の花鳥画家。渡辺省亭とは?

ということについて
お話ししていこうと思います。

渡辺省亭は、当時○○派という
派の教えを守り、その中で
学んでいた画家達とは違い

当時では珍しく、自分の考えを
主として、絵を独自に研究し
「自習自得」という方法で
絵を描いてきた人物です。

省亭は、晩年になり
花鳥画家として、とても有名に
なった人物ですが

風景画、人物画、静物画
陶磁器や本や雑誌
新聞などに挿絵を描いたりと
様々なものに、絵を描いてきた
人物でもあります。

今回は、この渡辺省亭について
お話ししていこうと思いますので
ぜひ最後まで読んでみて下さい!
最後には、絵描きとして心に響くような
省亭の言葉も紹介しています。

ではいきましょう!!
( ´ ▽ ` )ノ

晩年は花鳥画家として有名だった
「渡辺省亭」とは?

出典先:渡辺省亭 渡辺省亭 画『省亭花鳥画譜』1之巻
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12150791 (参照 2023-05-18)


渡辺省亭は、札差(ふださし)
を営んでいた
両親の元に生まれました。

札差とは、当時幕府から
その家来であった、旗本や御家人などに
支給されていた、米などの仲介を
する仕事のことを言います。

省亭は東京神田の出身で
省亭の父は、出羽秋田藩20万石の
佐竹家に仕える札差でした。

当時、省亭の家の側には
歴代将軍の鷹狩りの鷹のエサ
である、スズメやハトなどの
鳥を納める、「神田餌鳥屋敷」
(かんだえとりやしき)

というものがあり

4~5歳の時から、絵を描くことが
好きだった省亭は
筆と墨壺が一体になった
「矢立の筆」を持って、餌鳥屋敷にいき
鳥のスケッチをしていました。

絵を描き始めたのが
4~5歳ですから
当然、鳥を描かせたら
うまいわけですよね。

ですが、明治維新が進もうと
している中で、幕府は衰退。
幕府が没落すると同時に
父の札差業も解散しました。

省亭が7歳の時に、父が他界。
父の死後は
兄が省亭を養育するようになり
「家業につくには、資産運用の知識がないと
将来やっていくのには難しい」という
考えだったため

省亭は12歳になると
牛込の質屋へ奉公に
出されました。

ところが、幼い頃から
絵を描くことが好きだった省亭は
仕事をいっこうに覚えず
主人の目を盗んでは
物置に隠れて絵を描き

それどころか
昔なじみの浅草の本屋まで行き
目当ての木版画の新版を買っては
模写をする始末。

丁稚奉公の小僧の給料だけでは
とても足りず、自分の着ていた服まで
売って、葛飾北斎や歌川広重などの
木版画を買っていたといいます。

それほど、絵を描くことが
好きで、執着していたわけですね。
漫画好きな今の子供と同じです。

もちろん主人からは、当然怒られますが
全く気にせず、描いては怒られ
描いては怒られの繰り返し。

それが面白くなってしまったのか
ある日、省亭は番頭に怒られ
ホウキを持って
追いかけ回された様子を
皆が寝静まってから
行燈(あんどん)に描きました。

それが次の日にみつかって
大騒動。また怒られるわけですが

絶対これって、もう省亭自信
怒られるのを楽しんじゃってますよね。
しかも行燈に描いたら
確実にバレるのが分かるわけですから
(^_^;)

まるで、「サザエさん」の
サザエがカツオを
追いかけるみたいですよね。
こんなユーモアもあった省亭ですが
これを機に、主人は呆れ果て

「お前はこの店の丁稚奉公には
向いていない。三文絵師(売れない画家)
にでもなるがいい。」と家に返されて
しまいます。

家の人達も、そんなに
絵をやりたいのならばと
兄がツテを頼って
「柴田是真」(しばたぜしん)
尋ねますが、

是真は、省亭の描いた絵を見て
「菊池容斎」(きくちようさい)
の所への入門を勧めます。

これを機に
省亭の絵描き人生は
大きく変わっていきます。

花鳥画の師
「菊池容斎」への弟子入り
入門へ

出典先:渡辺省亭 画『省亭花鳥画譜』1之巻
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12150790 (参照 2023-05-18)

16歳の時
容斎の内弟子となり
ようやく絵を学べると期待した
省亭でしたが、容斎はとても厳格で
決まったルール
があり

入門から3年は「書」だけをやること
とういうルール。


なぜならば、当時は今のように
色鉛筆や、ペンなどがなく
絵を描くには筆を使って描く方法
しかなかったため

筆を使って描くということは
自分の手を自由自在にコントロール
できる必要があったため

書をやらせるという方針でした。

また、容斎の教え方は当時にすれば
とても斬新でありユニーク。
他の門弟のように
決まった手本はありません。


見たものを何でも描き
好きなように、思うがままに
描かせるという教えでした。

省亭はこの教えを疑問に思い
ある時、容斎に「なぜ手本を
教えないのか?」
と聞きます。

すると、容斎は
「14歳までならば、手本を描き
手取り足取り教える必要があるが
15歳以上はもう男。成人している。
成人に教えるまでもない。」

と言われます。

今の言葉で言ったら
「見て盗め!」という感じですよね。

容斎は、どんなに緻密に巧妙に
絵を描いても決して喜ばず
弟子が自分から質問しない限りは
決して教えず、自分の目で見て
自分の頭で考える
ということを評価し

手本に頼らず、自ら客観性を持って
自分なりに絵に取り組んでいくしか
ないという意識を弟子達に
植え付ける教育を大切にしていました。

そして、弟子が描いたものを見せにいくと
それを見ては
ここはもう少しこうした方がいいとか
こう描いた方がいいとか
アドバイスはしましたが
教えはしませんでした。

なので、他の門弟のように
素早く、手際良く描けるようには
ならないし、簡単に描けるようには
なかなか、ならなかったようですが

省亭がのちに、それが良かったと
自ら語っています。
最初はなかなか、うまく描けるようには
ならないが、その地道な修練を積んで
しばらく経つと

他の門弟の人達よりも
自ら分かるぐらい
はるかに、活きた絵が描けるように
なっていたと。

師である容斎は、当時
道をただ歩いていても
漠然と見ているのではなく
建物の構造から、草木の花

すれ違った女性の着物の柄まで
覚えて描いたりと、常に観察眼を
鍛え、目の解像度を上げていたといいます。

省亭にも、この教えが活きていて
写生力や学ぶ情熱は
同門の中でも群を抜いて
圧倒的でした。

花鳥画の師、容斎からの破門
「起立工商会社」での新たな道へ

出典先:渡辺省亭 画『省亭花鳥画譜』2之巻
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12150791 (参照 2023-05-18)

省亭は入門から、約3年
確かな理由はわかりませんが
容斎に破門されてしまいます。

破門されてからの、省亭の生活は
決して楽なものではありませんでした。
明治維新が起こってから間がなく


世の中は混沌とし
荒れる中で、絵を売ったところで
生計が立つはずもありません。

お金のためだけの安い仕事は
たくさんありましたが
その誘惑に負けたら
画家としては大成できない

自らを戒め、その日食べるだけの
安い仕事には手を出さず
修行の日々を過ごしていました。

破門されてから、約3年
絵巻物を合作で描くようにと
再び容斎から声がかかります。


破門を解かれた省亭にとっては
この絵巻物を手がけることは
とても大きな喜びでした。

省亭は「起立工商会社」に
就職します。当時この会社は
日本の工芸品などを輸出することを
目的とした会社で

輸出用の陶器に描く絵として
品格のある日本画の名手が必要なため
下絵や図案を描く絵師として省亭は
採用されました。

今でいうと、斬新で真新しくて
オシャレな工芸デザイナー
のような
立場であったと思われます。

そして
省亭の花鳥画のカリスマ的センスが
磨かれたのもこの頃です。

明治10年
第一回内国勧業博覧会が開催されます。
この時に出品した省亭の
「金髹図案」(きんきゅうずあん)
(蒔絵や陶磁器に描く下絵のこと)
が花紋賞(第三位)を受賞
しています。

花鳥画と七宝のコラボ
大倉孫兵衛・濤川惣助との出会い

出典先:渡辺省亭 画『省亭花鳥画譜』1之巻
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12150790 (参照 2023-05-18)

大倉孫兵衛は、江戸時代から続く
家業の絵双紙屋を継いだ人物で
明治になり、錦絵の出版や
陶磁器製作にも携わり

世界的に有名な、今現在も残っている
洋食器ブランド「ノリタケ」の誕生に
創業者とも関わり

のちに、省亭が出版する
「花鳥画譜」の出版元となる人でもあります。

孫兵衛は、すでに画家として名が知れている
喜多川歌麿や葛飾北斎、尾形光琳などの
活躍している画家が、いたにも関わらず
海外にも通用する品格とデザイン性を
持ち合わせた画家を選びました。

それが、省亭と
幸野楳嶺(こうのばいれい)
でした。


時を同じくして、もう1人の人物と
省亭は出会います。
それが濤川惣助(なみかわそうすけ)です。

濤川惣助は、第一回内国博覧会で
展示されていた、「七宝」を見て
魅了され、自ら七宝工芸の盛んな
名古屋や岡崎をまわり
七宝製作を始めた人物です。

濤川は、七宝を製作していく中で
七宝を日本画と組み合わせた表現を
したいという強い思いがありました。

濤川がいつ、省亭とコラボしようと
決意したのか詳細は分かりませんが

この濤川惣助と省亭の原画の共作で
作られた七宝作品は、今現在も
「東京・元赤坂の迎賓館赤坂離宮」

飾られています。

海外からの来賓客をもてなす
「花鳥の間」「小宴の間」の2部屋に
30枚ほど飾られ
今も多くの人を楽しませています。

今でも見ることができるので
興味がある人や
機会がある人は
ぜひ訪れてみてください。

↓↓↓↓↓
【東京・赤坂離宮迎賓館】へ進む
https://www.geihinkan.go.jp/akasaka/kacho_no_ma/

花鳥画ジャポニズムブーム到来!
フランス留学時代

出典先:渡辺省亭画「省亭花鳥画譜」
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12150790 (参照 2023-05-18)

明治10年
フランスではジャポニズムブームが
到来していて、省亭も絵描きとして
抽選で選ばれ、フランスへ留学することに
なりました。

しかし省亭自身、留学への憧れは
それほど興味がなく
苦労をかけっぱなしの母を1人残して
いくことはできないと
初めは渋っていました。

しかし、省亭の叔父が
母のことを一切、引き受けるから
せっかくの機会を逃すなと
背中を押され、28歳の時
フランスへ留学
しました。

ある夜、通訳を通しながら
省亭が、今で言うところの
ライブパフォーマンスをする
機会がありました。

そこには、モネやその弟子達である
ドガ・ニッスイ
なども招かれ
そこで省亭は筆をとり
皆の前でスラスラと
「雪中の鳥」という水墨画を描きました。

ニッスイは、万博で買った省亭の絵を
何度も模写してみたが
とても難しく、自分は不器用だと語り
ヨーロッパ人にこのような絵を描くのは
不可能だ
といい、その場にいた人達に
省亭は衝撃を与えました。

省亭は、フランス滞在中にたくさんの
西洋画を見て歩いては、自分の中に
インプットしていった。
中でも、西洋画の「光線」表現
描き方に深くひかれました。


その光線を自分の絵にも取り入れたいと
心に決めて日本へと帰国。

帰国後、パリ万博に出展し
見事受賞した絵は、省亭の評価を
高める機会となりました。

その後、省亭は容斎の
「真似ではなく、独創的であれ」
という教えをもとに
陶器の絵付けで
従来の模様を今までのようにパターンで
描くのではなく

自然のままの花や鳥、葉っぱを
モチーフとし、そこに日本画的な
表現を加えて応用していきました。

帰国後、省亭は結婚しましたが
当時の絵描きの暮らしは変わらず
とても苦しいもので
省亭は、絵描きを冷遇する社会に対して

「大作を絵描いたならば
その絵を描いた作者に対して
多額のお金を払って、生活に余裕を
持たせてあげるべきだ。

報酬をもらえたならば
美術館でも作って、皆と共有したい。
これは絵描きだけに関わらず
全てのモノを作っている人達も
そう思うことだろう。

しかしながら、今の世の中では
絵の値段を値切る人達ばかりで
到底、高額な報酬は望めない。

絵描きに一つの尊敬も持てない
今の世は、作ったモノに価値がないのか
はたまた、見る人の鑑賞力のなさなのか
今の時代では、計り知れない。」

という言葉を残しています。
これは本当にそうですよね。
今現代も、省亭が暮らしていた時代と
絵描きに対しての待遇は
対してあまり変わらないのではないかと
私自身は思います。

フェノロサとの出会い

出典先:渡辺省亭 画『省亭花鳥画譜』3之巻
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12150792 (参照 2023-05-18)

東京大学のお雇い外国人
アーネスト・フェノロサが公演をします。
フェノロサは20代の青年でしたが
美術展などの審査員にも選出され
美術に関して、次々と重要な役目を担い
当時としては、とても高い権威を持った人物でした。

フェノロサは、日本の優秀な画家を集め
教育をし、海外でも通用する日本画を作り
海外に輸出しようとしていました。
このフェノロサの考えに最も近かった画家が
狩野派の画家達でした。

やがて、東京美術学校が開設され
その時にフェノロサが選んだのも
やはりお気に入りの狩野派の画家たちで
岡倉天心に何度も省亭は指導者になってくれと
頼まれたが、頑なに断りました。

明治40年代になると
美術行政もさらに制度化され
美術展覧会の監査は
省亭が最も嫌う、情と派閥争いをする世界
となっていったため

省亭は、美術展などへの展示を
一切やめ、その後は注文に応じて
描いた絵を売り、ひと描き、ひと描きを
楽しんでいました。

省亭は、本や雑誌の挿絵も描いていた。
この時省亭は、たびたび
坪内逍遥(つぼうちしょうよう)
とも仕事をしました。

省亭は、画材研究も熱心にしていて
主に薄い群青色と濃い赤の色調を好んで使い
省亭は、長い貧困時代でも
絵の具はいいものを買い
日々研究しながら

自分なりの考えや解釈を
意識的に行なっていたので
色彩に関しても
古くからの伝統的なものだけに
留まることは
ありませんでした。

省亭は生涯、弟子を1人もとらなかった。
もし、自分が弟子をとったならば
容斎先生のように、厳格な教えになって
しまうだろうし、弟子に対して嫌な思いを
きっと与えてしまうだろうからと
弟子をとらず、教えるだけだった。

省亭の暮らしが楽になったのは
裕福なお客が、ひいきをして
仕事をくれるようになってきた
50代に入ってからで
1918年 68歳で生涯を閉じました。

今回のまとめ

出典先:『日本画譜』第1,2,4帙,日本堂,明23.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/11457079 (参照 2023-05-18)

今回は、【花鳥画】
風景には欠かせない自然や花鳥モチーフ
「自習自得」の花鳥画家。渡辺省亭とは?

ということについて
お話ししていきました。

最後に、省亭の勉強になった言葉があるので
それを紹介したいと思います。

「自分が若い修行時代には
展覧会だの、展示会だのというものは
何もなかったが、今の若い画家達は
自分の名を売るのも簡単になり

金を得るのも簡単になったが
実際、絵を見てみると
修練が足りていないのが見てとれるのが
とても残念なことだ。

名を売るためだけに
展覧会や展示会へ出展するならば
まだいい。金が欲しいというためだけに
出展するというのは
あまりに怠惰なことだ。

便利な世の中になったということは
それだけ、人を怠け者にするということだ。」

この言葉、絵描きとしては
結構、心に沁みますよね。
当時でこんな現代人が考えるようなことを
省亭は「自習自得」という信念を
常に持って、絵描き人生に取り組んでいた
わけですから、尊敬してしまいますよね。

少しずつ、気温も高くなりはじめ
季節も夏を感じるようになってきましたので
水分をたくさんとって
熱中症に気をつけながら
絵を描いていきましょう!

では、また次回!!
( ´ ▽ ` )ノ