豆知識

【お手本】風景画を描くうえでお手本になる画家。川合玉堂とは?

出典:パブリックドメインR

こんにちは!nagaです。
すっかり春めいて
関東では開花宣言も発表されましたね。

そろそろ本格的に
衣替えをしなければ!
と考えている今日この頃です。。。
(^ ^)


今回は【お手本】
風景画を描くうえで
お手本になる画家。
川合玉堂とは?
について
お話ししていこうと思います。

川合玉堂は、風景や鳥や動物
人間など、日本の風景を
多種多彩に描いていた
日本画の画家です。

なぜ、この川合玉堂を紹介するのか
というと、風景を描くうえで
重要なものになってくる
スケッチや表現力が
天才的で、風景画を描くときに
とても勉強になるし
参考になるから
です。

川合玉堂は、今から
150年ほど前に産まれた人ですが
風景のスケッチなどを見ると
いやはや、今現在にも
存在していたのではないか?

と思うほど。

スケッチ描写などが
現代的で、ものすごく上手で
目を丸くしてしまいます。

今回は、そんな風景画家の
川合玉堂についてお話ししていこうと
思いますので、風景画をこれから
始めていこうという人や


もっと風景画を上手くなりたい
という人は、とても勉強になるので
ぜひ最後まで読んでみて
ほしいなと思います。

では解説していこうと思います。
いざ!
( ´ ▽ ` )ノ

日本の風景画を極めた【川合玉堂】とは?

出典:パブリックドメインR

明治・大正・昭和にわたって
活躍した日本画の巨匠
川合玉堂は、愛知県で産まれました。

玉堂の両親は
紙や筆・墨などの商い業を
していたこともあってか
幼い頃から図画が得意で

錦絵を模写したり
芝居小屋に来た、歌舞伎役者の
写生をしたりと
盛んに絵を描いていました。

玉堂が8歳の時
愛知を離れ、岐阜に移り住みます。
玉堂の父はとても自然が好きな人で
よく山登りや散策に
連れていってくれたそうです。

後に玉堂自身も
「自分が自然を描く画家に
なったのは偶然ではなかった」

というほど、自然が常に身近に
あったことがうかがえます。

13歳の時、京都の書家
青木泉橋と美人画家の翠蘋(すいひん)
夫妻が岐阜を訪れた時
玉堂と出会います。

彼らは玉堂の絵の才能を
認め、玉堂自身もこの出会いに
絵への思いを刺激され
青木泉橋の紹介で

四条派の望月玉泉の門に
入門し、本格的に絵の道を
目指し始めました。

この頃の玉堂の絵を
見てほしいのですが
まだ10代でありながら
とても繊細で細かく
絵が表現されていて

とても10代で描いたとは
思えないほどです。

そして、17歳の時
第3回内国勧業博覧会に出品した
作品が「褒状」を受賞します。

これをきっかけに
名前を「玉堂」とあらため
両親から京都へ出る許可を得て
京に行きます。

しかし、入門していた玉泉の門は
京都において名門であり、その絵の
指導内容は、保守的な部分も多く
あったため

同じ四条派の出でもあり
狩野派や南画も学んでいた
幸野楳嶺(こうのばいれい)
の大成義会に入門し
新たに絵を学び始めました。

そして18歳の時
濃美大地震によって父親を亡くし
なんとしてでも画家になる
という決意を強く持ち
母親を連れて京へ戻りますが
半年後
母をも肺炎で亡くしてしまいます。

そして、22歳の時
師であった幸野楳嶺も他界。
しかし、この年の
第4回内国勧業博覧会に
出品されていた

橋本雅邦の「龍虎図屏風」を見て
玉堂は、今までにない
写実的で洋風な色彩感覚を使って
描かれた
その絵に、強く感銘し

京で、画家としてこれから
十分やっていけるだけの
地盤ができていたにも関わらず
それらを全て捨てて
上京し、橋本雅邦の門に
入門しました。

橋本雅邦の「龍虎図屏風」も
ぜひ検索してみれるので
見てほしいのですが
玉堂が感銘を受けたのが
よく分かります。

すごいですよね?
せっかく何年もかかって
作り上げたものを全て捨てて
絵の学びのためなら
常に前に突き進む!とういう
強い決心がうかがえます。

東京に移り
雅邦の門に入門してからは
短期間の間に
玉堂は狩野派の技術を極め
雅邦の信頼を得たといいます。

そして、玉堂は
昔の人ではありますが
今の現代人のように
考え方がとても柔軟な人
でも
あったそうです。

玉堂は今でこそ
山水画や風景画という
イメージが色濃くありますが


初期の頃は
花鳥画や動物画、歴史画や風俗画など
あらゆるものを描いていて

色々なものに目を向けていて
常にアンテナをはっていた
ということが
このことからも分かります。

上京した翌年
玉堂は初めて奥多摩に写生に
訪れ、その自然の美しさに
心を打たれたといい
この頃から玉堂は
風景画をよく描くようになります。

そして
第二次世界大戦が勃発し
東京都市部にあった
玉堂の家も消失したため

奥多摩に疎開し
以降亡くなるまで
青梅市御嶽で過ごしました。

京都でもたくさんの
美しい風景があったと思うのですが
あまり風景を描いていなかったようで
奥多摩の風景を目にしてから
玉堂自身の「これだ!」
と心から思える道を
見つけたのでしょうね。

とにかく見てほしい!
川合玉堂の写生とスケッチの素晴らしさ

出典:パブリックドメインR

玉堂は初め、山水画を描いていて
これぞ「The日本画」的な
画風の雰囲気が表現されている絵
なのですが

絵にする前段階の
写生やスケッチを見ると
今の現代人となんら変わらない
まるで、数年前まで玉堂は
存在していたのではないか?
と思うほど、親しみのある
スケッチや写生をしています。

昔の人は、写生やスケッチをするとき
主に筆を使ったものが主流なのですが
玉堂は、現代人と同じように
鉛筆を使って描いています。

なぜかというと
玉堂は、筆で描いてしまうと
写生なのに、絵になりすぎてしまう
傾向があるからだ
と言っています。

鉛筆ならば
見たものを忠実に
描けるし、肩に余計な力も入らず
手から鉛筆に伝わった力が
そのまま紙に伝わって
繊細に描ける。

確かにそうですよね。
筆の持ち方と鉛筆の持ち方は
似ているようで全く違います。

筆は姿勢を正して
紙に対して真っ直ぐ持たないと
ならないですが

鉛筆は
多少姿勢がどうであれ
どのように持っても描けるし
墨をつける手間もないし
何より軽い。

ましてや、スケッチや写生などは
道具を持ち歩くわけですから
便利だし、荷物にならない。

大昔にそんなことを
すでに発見していたのですから
本当に絵が好きで
描くためにはどうしたら?ということを
常に考えながら絵に向き合っていた人

なんだろうなと思います。

玉堂は写生やスケッチをいくつも
残していますが
中でも、私が見てほしいな
勉強になるなと思うのが
「盛秋の滝」の写生で

この写生はのちに
「日光裏見滝」という作品の
下絵になったものです。

日光裏見滝
↓↓↓↓↓

出典:パブリックドメインR

玉堂が30歳ごろに描かれたもの
とされていますが
もう本当に見事で、鉛筆一本で
ゴツゴツした岩から繊細な枝ぶり
流れ落ちる滝や川なんかが

すごいを通り越して
恐ろしいほどのスケッチ眼で描かれ
本当に圧巻で、絵を描く人なら
きっと誰もがこうなりたいと
思う作品だと思います。

また、玉堂は風景以外の
写生やスケッチも残していますが
その中でも、毛筆で「子猿」を描いた
スケッチは、まるで生きているようで
画面から飛び出てきそうな
「生」を感じます。

実際に、玉堂の描いた絵を見て
もらえれば分かるのですが、
どれをとっても詳細に描かれてます。

玉堂は生前
「眼で写生し、心眼で描く。
用筆・用墨に重きをおき
胸中のものを描き出す。
心眼に映じたものを自由に
描けるようにスケッチにはげむ」

とういうことを言っていて

写生は洞察力を深め
技術力を高めるという意味が
あるんだという信念を常に持ち
絵に向かっていたんだなと
思いますし

自分自身も
風景画を描いていく身として
玉堂の心の奥底を
見習っていかないといけないなと
今回調べていて思いました。


紹介した「盛秋の滝」ものっている写生やスケッチ画です。 風景を描く人はとても勉強になるのでオススメです。


今回のまとめ

出典:パブリックドメインR

今回は、【お手本】
風景画を描くうえで
お手本になる画家。

川合玉堂とは?
についてお話ししました。

見てほしいおすすめとして
玉堂のスケッチや
写生などを紹介しましたが
着彩されている日本画や
山水画もぜひ見てほしいと思います。

特に、雨が降っている情景や
霧やモヤがかかっている情景
川の流れの情景
など
とても素晴らしいので
ぜひ機会があったら見て見てください。

お時間がある方は
川合玉堂の美術館が奥多摩にあるので
ぜひ行ってみてください。
ではまた次回!
( ´ ▽ ` )ノ

川合玉堂美術館
↓↓↓↓↓↓

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